■舞踊の生理学を
小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>
どんなジャンルでも学問になる。
学問になる、ということは切磋琢磨する研究者が存在して、彼らの公共の社交場である「学会」が存在することになる。学会は、当該分野の研究者にとっては同窓会のような場所であり、新規参入する研究者の卵にとっては登竜門となる。
ダンス=舞踊の世界にも「舞踊学会」「比較舞踊学会」という二つの学会があって、それぞれ固有の活動を続けている。
「ダンスは観るものであって研究するものではない」
それはごくもっともな見解である。自分もそう思う。いつも、ではないが、時々思う。劇場やホールの座席に身を沈め、舞台上で展開されるさまざまな肉体の動きに眼を奪われることの方が、図書館や文献のなかに登場する静止した身体を見つけることよりもはるかに健康な、それこそ身体的な経験であるからだ。
だが、研究もまた楽しいのだと学会はいう。舞踊学会のHPを開くと、学会長のコトバがある。曰く「生命は律動(Rhythm)であり,生体は,循環(まひMafaru)で成り立つ以上,人類の最も大切な学問であることが分かります」。生命の律動と生体の循環こそが舞踊の根本であり、それについての知見を深めることは、壮大な「人間学」構築のためのひとつの礎となるであろう、そう読みとることができる。
批評も研究も、対象を「言語化」することによって成立している。もちろん、批評には批評の、研究には研究の固有の言語や文法が存在しており、それに従って批評家や研究者は、たとえば舞踊について言語化を試みる。両者が異なるのは、批評は多くの一般読者のために書かれるものであり、研究は同業者のためになされるものであるという点だろう。もっとも、研究とて一般読者の慧眼に触れるようなサービスが必要であることはいうまでもない。
そこで、舞踊学会ではどのように舞踊が「研究」されているのかをおおまかに見てみると、大きく二つの方向に分かれることがわかった(いわゆる舞踊教育はここでは除く)。
ひとつは、他の多くの研究分野に共通する方法であるが、歴史的な研究である。かつて書かれた文献を駆使して、図画や映像を多用し、舞踊の身体を歴史的に再構成するというものである。歴史的な研究というものは、どうしてもある時代を切り取って考察することになるから、現代とのつながりを明確にすることがいきおい困難になる。とくに身体表現である舞踊の場合、ルネサンス期のダンスとバレエ・リュスの作品とコンテンポラリーダンスの身体とでは、同じ「人間の身体」であり、そこにある種の連続性を考えなければ、表象的=表層的な「イメージ研究」に終始してしまう。
もうひとつは、モーションキャプチャーなどを利用した実証科学的な研究である。こちらの場合は、舞踊を完全に「身体の運動」と捉えて、その運動分析を科学的に行なっている。したがって、対象となる舞踊は、型や所作が明確に決まっていて、踊り手による個人差が大きく影響しないような日本舞踊やクラシック・バレエに限定される。身体のイメージ(表象)に時間というパラメータ(変数)を導入して、新たな研究領域を開拓しつつある。
この実証科学的な方法によって、コレオグラファー個人の振付の特徴とか、踊り手個人の身体の癖や障害がどのように舞踊へと昇華されているかといった、「個人の身体表現の研究」が可能になればどんなに面白いかとも思うが、いまは最大公約数的に舞踊の身体を捉えることが精一杯なのかもしれない。
これらふたつの方向の研究に加えて、たとえば批評史の研究とか舞踊言語の研究といったものもあるだろう。いずれにせよ、舞踊というものがどのような要素によって成立しているかの分析であり、その意味で(そんなタイトルの著書もあったが)「舞踊の解剖学」なのである。
解剖学があるならば生理学が必要である。「舞踊の生理学」とは、舞踊がもたらす個人ないし社会への作用や機能について考えることであり、簡単にいえば「どんなに舞踊が役に立つか」の研究である。私が提唱している「芸術生理学」には、むろんこの「舞踊の生理学」も含まれるのである。P.A.N.通信 Vol.60掲載