■無心・虚心/無身・虚身

 小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>

 精神と肉体とは一つであって一つでない。
 ダンスする身体は、精神と肉体とが一つになっているだろう。
 それは、目まぐるしい速度で、精神と肉体とがシフトする瞬間だ。だが、ダンスを見る身体は、自らの肉体をどこかに安置して、精神だけを(思考だけを、と云ってもいいだろう)ダンスする身体へと向ける。しかし、だからと云って、観者は自らの肉体もまたダンスする身体の延長線上にあることも忘れない。昔の哲学者はそうした状態に「二元的一元論」という、いささかすわりの良くない表現をあてはめた。結局のところ、どっちなのか?
そんなことを考えるのは、また何度目かの逡巡がダンスを観る際の障害となったからだ。
 例の、ダンス公演のあとなどに催されるトークコーナーにおいて、しばしば観客から質問される「ダンスしているときはどんなことを考えているのですか?」という問いだ。
 問いに答えがない、と云っているのではない。愚問である、と云っているわけでもない(切れのいい問い、でもないけれど)。いわば、問いそのものがダンスする身体をがんじがらめにしてしまって、せっかく精神と肉体とが甘やかな蜜月を迎えていたと云うのに、無理やり精神(思考)だけを引き剥がしてしまうような、そんな乾いた、野蛮な気配だけが感ぜられるのだ。
 舞踊家は舞踊の最中に何を考えているか?
 それにしてもこの問いには長い歴史があるようだ。
 たとえば昨年百歳の祝いを直前にして亡くなった、京舞井上流の四世八千代(井上愛子)の『井上八千代芸話』には、息子の能楽師・片山慶次郎が母にこんな風にたずねる場面がある。
「お母さんは、舞を舞(も)うてる時、何考えてる?」
これに対して四世八千代は即答する。「阿呆かいな、舞を舞うててものを考えますかいな」
息子の慶次郎は、自分なら段取りとか技術的なことを考えてしまうし、考えてないときはきっと緊張してアガッているときだろうと述べ、母の「無心」を不思議がる。すると、母は「心」のことには触れず、自分は「お客さんにしても、どっちみち顔なんか見えへんもん」と別の方向から切り出す。お客の顔が見えない?それはどういうことか?
「お客さんが一人でも満員でもちょっともかまへん。私は舞うだけやし、向うは見はるだけやもん」
慶次郎は今度は母の「虚心」に驚く。だが、母にしてみれば舞うときにいろいろ考えが浮かんでしまうのは「稽古」が足らないからだと断言する。
「お客さんはあんたの能を観に来てはんにゃろ。その場になってとやこう考えてる人を観に来はったんと違うえ。そら稽古の時にすることや。本番までそうなるちゅうのは稽古が足らんにゃがな」
四世八千代には「舞う身体」だけがあって、それは自身にとっても漠として捉えがたい代物なのであろう。人は、崇高なる精神の頂点に達していると絶賛するだろうが、「無心」や「虚心」でわかるように、むしろ四世八千代は肉体だけに、舞そのものになってしまっていると考える方が自然であろう。
 思考する、というのはどこかで客観的になる、ということである。舞う自分の姿を意識のなかで先んじる。あるいは稽古でうまくいったときの身体を頭のなかでなぞる。つまりは、二つの身体が平行して存在することになるだろう。踊る身体と、踊りながら思考する身体の二つだ。だが観客には一つの身体しか見えない。「その場になってとやこう考えてる人」は、本来観客には見えないし、見たくもない。
ダンスや舞踊は、一方でこうして虚心坦懐になることがひとつの理想とされ、その一方であまりに「忘我の境地」になってしまうことも憚られるのである。むろん、正解などない。
 ただ確実に云えるのは、ダンスする身体を見ている観客もまた、ダンサーや四世八千代に投げかけた問いと同じものを自身にも等しく突きつけるべきなのだ。「ダンス(舞踊)を見ているとき、どんなこと考えてますか?」と。

P.A.N.通信 Vol.59掲載