■インプロヴィゼーションの難しさと魅力

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 神戸・ジーベックホールでの久々のダンス公演はアンサンブル・ゾネの「Face to Face vol.2」と題されたインプロヴィゼーション(9月3日)。岡登志子の演出・構成、ゾネの岡と伊藤愛、そして垣尾優がダンス。トランペットが山本信記、コントラバスが稲田誠、ライヴ・インスタレーション(サウンド)が梅田哲也。照明は岩村原太。
 冒頭で垣尾が懐中電灯を持って現れるのだが、その光があまりにも暗い。何かを照らすための光ではなく、見えにくくし、苛立たせるための影を放つ装置のようなものだ。しかもカチカチとスイッチを入れるような音をたてているのだが、一瞬ボワンとほんの少し明るさを増すだけ(のように感じられた)、それがどんな効果をもたらしているのか、見えてこないのが苛立たしい。とはいえそれが不愉快ではないのは、それによって起こる感情が岩村が期待した範囲のものであると思えたからだ。暗い光によって観客はいっそう目を凝らすだろうとか、そんな生半可な「効果」を前提としたものではない。本来発光するための装置である懐中電灯に対して、ぼくたちは当たり前に何かを照らしてはっきりと見えるようにしてくれるろ
のと期待しているが、ここで岩村はより見えにくくするための装置としてそれを提出した。それがこのインプロにとって、何か大きな意味を持つものではないかと予感された。
 事前にソロで出る順序やきっかけなどは決められていたようだし、何よりもあの空間で、ライブな音とのコラボレーションを行うということ自体、既に強いコンセプトであったといえる。音の3人のパフォーマンスは、本当にすばらしいものだった。
 振付のない状態で即興的に踊るということの難しさは想像に難くない。それでもインプロを軸にした作品が成立するためには、自分の動きの癖や気持ちよさをなぞるのではなく、瞬間瞬間のテンションとクオリティと、全体を見たときのトーナリティを高めるために、相互の関わり合いを冷静に踏まえつつも、確かな自分の世界を抑えたり出したりという瞬時の判断の積み重ねが必要なのだろう。関わり合いの中で、それまで自分の世界として重要なものと認識していたものが、介入され侵され壊されることもあるだろうが、それでも核として残るもの、それを発見する契機となれば、そのインプロは本人にとっても、作品にとっても成功したといえるのではないだろうか。
 この日のインプロを通じて、岡の世界の揺るぎなさと自在さ、そして様々な意味での彼女の頑固さのようなものが見えたように思えたのは、大きな収穫だった。
 ヤザキタケシが深津篤史率いる劇団桃園会のリーディングとコラボレーションした「断象・うちやまつり」(9月17日、アイホール)は、ヤザキが言葉ではなく劇の流れや役者の空気の出し入れを読みとり身体化しようとしたという点で、ひじょうに面白かった。演劇批評はしばしば戯曲批評にとどまりがちだが、ここでヤザキが見せたような、演劇の言葉でない部分をストレートに受け止め、咀嚼して自身の世界と止揚するような表現は、得難い貴重なものだと思えた。
 安川晶子がシンガーソングライターの大垣知哉とのコラボレーション「secret garden」(9月23日、一心寺シアター倶楽)が面白かったのは、情感あふれる美しい歌声や詞に寄り添って愛らしいチャーミングな面を見せながら、その世界に寄り添いきれない内面の凍結をさらけ出し、さらにそれを溶かすように大垣の声がかぶっていったことだ。
 ヤザキも安川もずいぶん即興的な部分が多かったようだ。あらゆるインプロヴィゼーションはそうだろうが、寄り添い、裏切り、反目し、和解し、また寄り添いと、ハッピーエンドかトラジェディかはともかく、ま、人生のようだ。
 舞台芸術以外では、東京国立近代美術館の「アジアのキュビスム−境界なき対話」(10月2日まで。以後、韓国、シンガポールに巡回)がすばらしかった。キュビスムが革命の思想として深化され、内面化されたプロセスがヴィヴィッドに理解できる。

P.A.N.通信 Vol.59掲載