■批評という測量術
小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>
大学院で新舞踊や創作舞踊の「型」について研究しているゼミ生がいる。あるとき、新舞踊についての批評文の比較ということでその院生がもってきた文章というものが、なんとも奇妙なものだった。さまざまな流派の日本舞踊家によるグループ「集団 日本舞踊21」の公演の紹介文だったのだが、その「表現」に批評というものの困難が潜在していると感じたのである。
もとより、その文章の書き手を批判することが目的ではない。だが、舞踊批評という表現術がいかに「他者」を必要としなければならないか、その悲哀すらも感じられるものであったので、ここで少しだけ披瀝しておきたい。
評者は吾妻徳彌の『お夏狂乱』について書いている。そして、徳彌の身につけている衣裳に言及している。日本舞踊では、素踊りか衣裳付けかは重要な事項であり、そのことにふれることは別段問題ではない。だが、「まるで辻村ジュサブローのような人形感覚」とか「キャシャレルが描いたような白地に花の小袖を…」、あるいは「ミッソーニのような色合いの襦袢」といった表現に出会うと、こうまで「他者」を前面に押しださなければ、衣裳ひとつ説明することはできないのかと、暗澹たる気持ちに襲われるのである。
なにも、日本舞踊の批評や紹介は日本語と日本文化によって行なわなければならないとは思わない。ダンスもまた同様であろう。筆者とて、伊藤キム+白井剛の『禁色』(京都芸術劇場・春秋座)を三島由紀夫の同名の小説と関連づけて評ずることの困難と滑稽とを端から感じていたし、水と油の『不時着』(MIDシアター)では、ほとんど反射的にフィリップ・ジャンティとの距離を測定していた。さらにNoism05の『Triple Bill』(シアターBRAVA!)中の、黒田育代振付による「ラスト・パイ」を臆面もなく「対角線の『ボレロ』だ」と高く評価した。
そこでは日本語、日本人、日本文化といった要素は、ナショナリズム的に描きこむことを除けば、前面に登場することはないだろう。
だが、といささか常識的に思う。
『お夏狂乱』の衣裳に対して、キャシャレルやミッソーニを引き合いにだすことで、この演舞を実際に見ていた観客と、まったく日本舞踊を見たことのない観客とに、「何か」を伝えることができるのだろうか。日本舞踊は決して古風なものではなく、とてもあでやかな色彩豊かな表現なのだ、と云いたいのであろうか。日本舞踊に限らず、歌舞伎や能は、現行のいかなる舞台芸術に比べても「派手」である。問題はそこに、日本舞踊とは、そして踊る身体とはまったく関係のない「他者」を安易に表現の俎上に乗せてしまっているところにある。
『お夏狂乱』の評者は、吾妻徳彌とお夏の関係、そして踊り手と役柄と衣裳の関係というものに少しでも心遣いをしただろうか。キャシャレルでもミッソーニでもいい、そうしたデザイナーの作品と吾妻徳彌の衣裳(じっさいは祖母である吾妻徳穂のものだが)とのあいだに広がっているであろう「距離」というものに、批評家として真摯な「測量」を行なっただろうか。
他者を介在させることは批評の必然であろう。比喩や暗喩といったレトリックがそれ自身ダンス的になることだってあるだろう。けれども、批評的測量術を身につけていなければ、それらの表現は、当の批評対象とは切り離されてしまい、双方が宙に浮いてしまうことになるだろう。批評の空中分解である。
余所様のことばかり云っているのも礼を失するだろうが、筆者とて、上述の伊藤キムと三島との距離、水と油とフィリップ・ジャンティとの距離、黒田育代とボレロ(モーリス・ベジャール)との距離について、真剣に正確に測量することをめざしているつもりである。
結局、身体表現の批評なるものには定型がない、というところに極まるのであろうか。唐突ながら、その解答例は、最近講義でしばしばテキストにするようになった小林秀雄の文章に隠されているのではないかと考えている。P.A.N.通信 Vol.58掲載