■踊ることがもっている力

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 「ダンサー+舞台俳優+マルチアーチスト」というふれこみで黒子さなえ、内田淳子、飯田茂実の同年齢の3人、そして若手ダンサーの野田まどかが加わった「で・ら・シ・ネ」(7月14〜18日、精華小劇場)は、まず内田の声の変幻自在の強さに圧倒された。内田は舞台の上でどこまでも役者であり続け、自分が定めた、あるいは定められた何者かであり続ける。それは錯乱した者であったり嗜虐的な者であったりして、キリキリと客席までも苛み苦しめる。それは内田の役者としての力であり、それを引き出したのは飯田のテキストである、ということはできるが、演劇というのはそのようなものだということもできるのではないか。
 というのも、それに対して黒子は、踊っている限りその身体はどうしても黒子の身体であるとしか考えられないからだ。もちろん黒子が黒子でなくなるための仕掛けはいくつも用意されていたのかもしれない。しかし、ダンスする身体の人称を変えるのは、やはり容易なことではない。その意味から、黒子は少し損な立場を与えられてしまったかもしれないが、その身体の人称の揺るぎなさが、内田や、何よりも野田のフィールドを広く広く用意することになったのではなかったか。
 野田がこんなにも自由に動き、声をあげ、存在感を膨らますことができたのは、やはり飯田の仕掛けによるもので、完全に狂気に憑依したようであったり、完全に「野田まどか」その人であるような素の言葉の語り手であったりと大きな振幅を与えられたからだ。おそらく野田には、衣裳に仕掛けたティッシュを撒き散らしたり、奇声をあげたり、吹き流しのようなものを抱えていざったり、振れば振るほど続々といろいろなものが出てくるようなところがあるに違いない。全体を概観して統一した完成度を云々するのではなく、個々の才能のスパークが攻撃的で、舞台芸術というものにはどうしてなかなか破壊力があるのだな、と思わせられた公演だった。
 ヤザキタケシは、松本芽紅見と「ONE WAY」を関西ではお披露目(7月9〜10日、Art Theater dB)。カミ手の2人がシモ手の壁に向かって行く過程で、様々な脇道に逸れるのを楽しむという、シンプルな構成。随所にちりばめられたヤザキと松本の駆け引き、掛け合いがひじょうに愉快で洗練されている上に、炭坑でも掘り進むようにただ何ものかに向かって行く、という動きの直線性が、昨今のダンスには珍しい強さとなっていた。
 dotsの「KZ」がよかったのは、強制収容所という強いテーマを置き、創作の過程でメンバーの協調度が相当高かったようで、個々のダンサーの方向性、動きの先に見据えているもの、動きの温度や湿度とでもいうようなもの…大変言葉を定めにくいのだが、そうとでもいうようなものが在り難いと思えるほどにかっちりとしていたことだ(構想・演出=桑折現。7月8〜10日、AI・HALL)。屍体のようになった者らを引きずるという動きや、目隠しされた女が長年封印していた踊りを音楽によって呼び起こされておずおずと、自分の身体が自分のものであることを確かめるかのように動かし始める(ように見える)シーンなど、深く静かに感動をかみしめることができた。
 金森穣率いるNoism05が3人のコレオグラファーに作品を委嘱した「Triple Bill」で圧倒的だったのが黒田育世の「Last Pie」(7月23日、シアターBRAVA!)。シモ手前で30分余、鳥のように羽ばたいたり、あらゆる民族というものが根源に持つトラディションの元型を持っているという意味で、この世に現れた「初めての人」という姿で踊り続けた金森には、「神々しい」としか言いようがない。このように、極限かと思えるまで踊り続ける姿を見せられると、もう泣きたくなってしまう。技術面で何の不安もないことは当然だが、シンプルに、ただ踊るだけということの凄まじさに打たれた。

P.A.N.通信 Vol.58掲載