■声をだす身体

 小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>

 最近に限ったことではないが、ダンスにおいて「声」はしばしば発せられる。それが意味不明の奇声や嬌声や叫び声であるときもあるし、しっかりしたセリフや詩の一節を朗読するようなものもある。前者であれば、「声ないし音を出している」身体ということが重要なのだろう。後者であれば、身体言語と詩的言語とのコラボレーションという狙いがあるのかもしれない。
 ダンスシューズがリノリウムの床にこすれる時に発する音やダンサーの呼吸音などは、いわばダンスに不可欠の音であって、ギターの演奏会でフラットを移動する指が弦とこすれあう時に発生する音と同じである(あの音が嫌いでギターが嫌いという人間がいるが、それはギターという楽器を本質的に理解していないわけだ)。それらの音はたしかに雑音であるかもしれないが、たとえば無音のなかで踊るときなどは、重要な「効果音」として聴くことも可能である。
 だが、「身体表現」であるダンスにおいて声を出す、というのはいかなる事態なのか。そんなことを考えるのは、このところずっと古典芸能にひたっているからかもしれない。たとえば文楽の人形遣いは決して声を出さない。舞台上手の「床」という場所に浄瑠璃を語る義太夫と三味線という担当者がいるからだ。だが、その一方で、文楽ではその義太夫の声と三味線だけを聞かせるような「素浄瑠璃」という演奏法もある。能楽にも素謡という形式がある。そこには人形も能役者も登場しないので、華やかさに欠けることは否めない。だが、義太夫の素浄瑠璃や能の素謡は、それぞれ独立音楽として成立してもいるから、こうした形式がなりたつのである。
 しかし、そうでありながら、観客は太夫の「語り」を聴きながら、舞台を「想像」する。もちろん、廃曲寸前になっていてどんな舞台であったか誰も知らないものもある。そういう場合には、今まで観たことのある複数の舞台を組み合わせて、自分なりの舞台を「創造」するのである。文楽の太夫は、物語中のあらゆる役柄のセリフや心情を語り、ト書きや背景を語り、すべてを「声」によって出現させてくれるのだ。
 思いのほかそうした演奏会が退屈でないのは、観客にたくさんの自由度を与えているからだ(もちろん、居眠りをする、という自由も含まれるが)。声だけによってつくりあげられた世界を、観客の心のなかで自在に遊ぶことができるからだ。素浄瑠璃を楽しむというのは、身勝手で知的で妄想的な行為なのだ。
 しばしばコンテンポラリーダンスにおいてダンサーが声を出したり、あるいはニュース、天気予報、CM、古い歌謡曲などを「音楽」として流したりするのは、この素浄瑠璃の場合とちょうど逆の側面をもっているといえる。すでにダンスとして成立している身体に、声や音が付加される。ダンスなのだから、それらの音響の方がメインであるということはないだろう。だから、あきらかに身体の動きに加えられる要素である。そのとき、ダンサーは自らの身体を、身体だけで舞台に立つことを放棄しているのだろうか、躊躇しているのだろうか。たしかに、そこで発せられる声が、圧倒的な魅力と強度をもちあわす場合もある。笠井叡が「バラの、呼吸」といいながらオイリュトミー的な身体運動を見せるとき。大野一雄が「モネさん、おはようございます」といって、オルセー美術館のモネの『睡蓮』の前で踊るとき。だから、ダンサーがすべて声や音をだすことが問題だといっているのではない。けれども、どのくらい身体そのものと近づけて考えているのかということが気にかかるのだ。
 古典芸能の身体は、まず第一に「我慢」を強制される。抑圧によって、かえって自由になるという、まるで西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一のような事態を身体化しているのである。声をだし、セリフをいうダンサーたちは、何か抑圧や強制を自らの身体に課しているだろうか。日常生活と同じように、動き、話し、笑う自由な身体は、観客の視線からあらゆる自由を奪うことになりはしないだろうか。観客を最大限自由にすることもまた、ダンスというものの機能だと思うのだが。

P.A.N.通信 Vol.57掲載