■バタ臭い
高松平蔵<在独ジャーナリスト>
2、3年前に日本人の学生さんと話す機会があったが、何かの話で「バタ臭い」という言葉をつかったところ「なんですかそれ?」とかえってきた。
いうまでもなく「バターの臭いがしてきそうだ」ということから「西洋かぶれ」といったような意味である。日本人の体格が食生活や生活習慣の変化から欧米型に近づいたといわれて久しい。ドイツの劇場で見る公演は欧米のカンパニーが圧倒的に多いのだが、日本人のアーティストが混じっていることがある。しかし顔をじっとみなければ分からないときがある。体格がかなり「バタ臭い」からだ。なるほど、こんな言葉が死語になっているのもうなずける。
先日見た公演でも日本人のアーティストがまじっていた。公演ではいくつかの作品が上演されたのだが、中でも男性4人女性1人による作品があった。舞台一杯の赤いカーペットの上で女性と男性1人が踊る。ときに女性が真ん中に立ち男性が取り囲むようにカーペットの端に立つ。シルビィ・ギエムの「ボレロ」を想像する瞬間がある構図だ。
ところが、この女性というのはシルビィ・ギエムではなく「日本人」だった。男性に取り囲まれて踊る女性という構図は祝祭的な雰囲気がうまれるが、決してボレロではなかった。技術はあるのだが、彼女の体の質からいえばアメノウズメという言葉を思い起こす。しかも意図的におかしみを出そうとしているのか、結果的に彼女の風体がおかしみを生み出しているのかちょっと分からないようなところがあって、ほとんどがドイツ人で占められている客席も笑おうかどうしようか一瞬迷うような雰囲気があった。
いずれにせよ、彼女の存在感そのもののお陰で作品の印象は深かったのだが、プログラムを見る限り、この作品はカンパニーのレパートリーで特別彼女のためにつくった作品ではないようだ。それでも踊るアーティストによってコレオグラファーは手をいれるものだと思うのだが、彼女の体つきをどの程度意識したのかな、という思いが残った。
ところでドイツで目につく日本文化、「MANGA」などは近年すっかり若者文化の一部になっている。文化的な偏見もなく、あくまでも「クールなもの」としてうけているのだが、これはグローバル化と情報の高度化についてまわる宿命でもあり、良さでもある。そのせいか人気のあるものをみると作品的には国籍のわからないものが多いように思う。そんな昨今、明らかに「バタ臭くない身体」を持つ日本人アーティストが新鮮に見えてしかたがなかった。
ドイツに住んでいるとアジア人の体とか表情がやたらに目につくときがある。たとえば子供が通う幼稚園に中国系の子供がいるが、迎えに時々やってくるおじいちゃんなどは、私の幼なじみのおじいちゃんに風体がよく似ており、むっつりと不機嫌そうな顔で、こげ茶色のジャケットを着て、肩をすこし揺らしながら、のっそり歩いてくる姿に懐かしさを感じる。同時に本人の意識とは別にドイツのバタ臭い(?)風景に抗するかのようなアジア人の風情のようなものを見出す。
あるいは日本へ帰るとき、アムステルダムの空港を経由して関空へというコースをとる。日本行きのゲートに近づくと、雰囲気の変化にいつも一瞬ぎょっとする。なぜなら日本人がぐっと増えてくるからだ。団体旅行のおばちゃんなんかがツアーコンダクターなんかに腰を低くしてお辞儀をしてお礼をいっている姿など、妙に新鮮だ。60年代に日本人の身体をダンスに昇華したのは土方巽だった。そして80年代にアジアの身体を意識するところまでいった。21世紀にはいった今、グローバリゼーションの時代だからこそ、今一度見直してみる時期かもしれない。P.A.N.通信 Vol.57掲載