■コラボレーションの身体

 小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>

 最近、またぞろという感じで「コラボレーション」というコトバを聞いた。辞書的には「異分野の者同士が,力を出し合って共同で作り上げること」ということになるだろうが、ダンスにおいては幾つかの位相が想定される。
 つまり、〈ダンス〉における異分野、〈ダンス〉と〈音楽〉における異分野、さらには〈ダンスを含んだ身体表現〉における異分野などの位相のちがいである。それら異分野をさらに越境して、よりマルチなメタコラボレーションというものも考えられる。
 近ごろは専ら古典芸能の歴史などを研究している者にとっては、能も歌舞伎も最初からコラボレーションであった。能においては、そこにある身体は現在のものであっても、謡に登場する和歌は遥か昔の古歌である場合がある。歌舞伎においては、衣裳や風俗や言葉遣いは江戸なのに、時代背景は鎌倉時代であったり、清元と義太夫という異なった時代に始まった音曲が同時に奏でられたりもする。
 能や歌舞伎において、いわばそうした「前提としてのコラボレーション」というものがあって、それらを融合的に鑑賞できたり、逆にすべてに違和感をもって観るのを遠慮してしまうことになる。なぜなら、能や歌舞伎では、舞台上の役者や演奏者だけが現代のもので、それ以外のものはすべて〈過去〉のものだからだ。いや、正確には、〈過去〉のものであるというイメージによってそれらの古典芸能に接しようとしているからだ。
 モダンやコンテンポラリーのダンスにおいて、さまざまな位相でのコラボレーションが行なわれているが、もしそこで違和感というものが起こるならば、〈作品〉と〈鑑賞者〉のあいだに発生する「イメージのズレ」として生ずるのではないだろうか。つまり、〈ダンスする身体〉と〈音楽〉との間とか、〈モダンな身体〉と〈古典の身体〉との間とか、そうしたところに発生する「ズレ」ではないはずなのだ。
 モダンやコンテンポラリーなダンスを観に来る人たちの多くは、古典音楽(純邦楽)や日本舞踊に必ずしもなじみがあるわけではない。逆に後者に関心がある人は、モダンやコンテンポラリーを「別の身体」として見ることに慣れてしまっている。それぞれの身体や音楽や衣裳や装置などと観客一人ひとりとの〈距離〉があって、その〈距離〉の差の集積から発生するのが、舞台や作品に対する、さらにはコラボレーション一般に対する違和感なのではないかと思うのである。
 コラボレーションのむずかしさは、そうした千差万別の〈距離の差〉に、ひとつの物差しを提出することの困難さにつながるのである。この物差しを簡単にセンスとか才能とか時代性と云い替えることができないところが、身体表現の面白いところでもあるのだ。だが、大事なのは「足し算ではないこと」、というのに尽きると思う。上に述べたように、〈距離の差〉の集積、という表現は、数学的に云えば「足し算・引き算」ではなく「微分・積分」の領域なのである。微細な身体の差異に鋭敏でありつづけながら、その差異と差異のあいだにさらに差異を発見しつづけること、それは足し算的なコラボレーションとはまったく方向のちがった試みだ。微積分的な身体への配慮、という発想だ。
 そう云いながら、まことに大雑把な感慨なのだが、〈古典の身体〉をもった人が〈モダンな身体〉とコラボレートする方が、意外にうまく行く場合が多い気がする。全体がモダンな舞台に〈古典の身体〉をもちこむと、そこには異物として古典が挿入されてしまった感が拭えない。だが、〈古典の身体〉は、それが〈現在の身体〉であったときにはもっとも新しい身体だった。その残光、残り香、あるいは残身、といったものが舞台を包んだとき、そこに今現在もっとも新しい身体が入ったところでビクともしない重力を湛えているのだ。
 そこで問題になってくるのは、40年という歴史をもつ舞踏の身体が、コラボレーションという実験にどのように関わるべきかということなのである。

P.A.N.通信 Vol.56掲載