■やかましかったりしんとしたりしてるチェーホフ

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 ごく静かに動いていることをただ見るということは、ずいぶん忍耐を求められる。その時には気づかなかった静かさの中のたかまりに、数日経って気づく。静かに動くことは大きな力を必要とする。stillnessという言葉をめぐって、少しずつイメージが明らかになってくる。j.a.m.Dance Theatreの「静かに晴れた夜には」は、そのような始まりであった(3月12日、神戸アートビレッジセンター、振付・構成・演出=相原マユコ)。
 この作品冒頭の静かな歩みの10分余(それは開演の合図もなくホールの中2階の犬走りのような廻廊から始まり、ホールを3/4周して梯子を伝って舞台へ下りてくるという<だけの>時間である)において、ぼくはかなりの退屈さと戦い、これがただ「歩く」という動詞に還元されることとどのように戦っているのかを問いかけ、冗長化された段取りではないはずだと確信しつつ、一方でこれがそのように見られるかもしれないという危惧とも戦っていた。
続いてのシーンは、たくさんの暗転と、その暗転のたびごとにセットされるやや時代がかったポーズ(poseでありpauseである)がstill life(静物)のようであることを楽しみながら、フラッシュバックのように見せられる断片から背後の豊饒な物語を想像する。やがて動きは投げたり崩れたりと適当な荒れを見せるのだが、やがて3人の女たちが一人の男に向かってエキセントリックでセクシャルかつコケティッシュに迫っていくのがなかなかの力業である。3人の動きは、しなりの硬度やスピードにバラつきがなく、
まるで三つ子を見ているようだ。冒頭の静けさから、ずいぶん遠い場所へ来てしまった。さらに高いテンションを保ちながら様々な展開を経て、再び冒頭を思わせるような静けさに包まれ、身体の中から糸を紡ぎだしていくような動きから崩れ落ちてしまう。
この作品はチェーホフの劇作に想を得ているということなのだが、なるほど、静けさの一方の哄笑や猥雑、田舎臭いお洒落など、じゅうぶんチェーホフだと言われて納得できるだけの要素と何よりも空気に満ちていたように思えるから不思議だ。
 チェーホフと言えば、パパ・タラフマラも「三人姉妹」を上演した(2月12日、スタジオSAI。作・演出等=小池博史)。小さなアトリエは、やはり笑い、エロティシズム、大声、ものすごい動きなどなどが充満、波に揉まれる小舟の上でジェットコースターに乗っているような、強烈なドライブ感に見舞われた。港千尋は3人のダンサーそれぞれが戯曲の誰であるかわかると書いていて、ぼくはわからないのが悔しいのだが、でもやはりこれもまたチェーホフの読みではあるなと納得させられたような気はした。小池はパンフレットに「本当にチェーホフの「三人姉妹」は、馬鹿馬鹿しい喜劇だと思う。悲劇を装った喜劇である。しかし、それは私たちの日常でもある」と書いているが、引用されたテクストのもつ質感もさることながら、その馬鹿馬鹿しさと装い方そのものに、小池が探り当てたチェーホフのおもしろさが凝縮されていたのだろう。
 さて、砂連尾理+寺田みさこ「loves me, or loves me not」をやっと観ることができた(2月11日、シアタートラム)。関西のダンサーの公演を東京で観るのは初めての経験だったので、なんだか他人事とは思えないような、お尻がムズムズするような感じもしたのだが、やはりいつもぼくがこの二人の中に見ている関係性の困難、外部世界との距離をどう見極めどう関わっていくかという困難、つまりぼくたちが直面している現在的な問題についてはいっそう深められ、表現としても軽妙だったり深刻だったりしながら、洗練の度を高めているように思われた。次回作品は、松田正隆の書き下ろし戯曲をダンス作品化するという。チェーホフではなく松田である。どのように言葉が切り刻まれ、結び合わされ、昇華されるか、楽しみだ。なお、いつもながら、そして他でもそうだが、清水俊洋の宣伝美術等、すばらしい。

P.A.N.通信 Vol.56掲載