■ワークショップの身体

 小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>

 「ワークショップの中で求められている日常から逸脱した時間というのは逸脱された元の時間からの一つの選択に過ぎないもので、そのベクトルの延長線上にあるはずの帰着点も結局は元の逸脱された時間軸であることは明らかである。そして、それらの中心に存在する個人の身体の感覚は共通されるものではないのである。」
 上記の文章は私が指導教員を務める大学院生のレポートの一部である。彼の研究テーマは「コンテンポラリーダンスにおける身体性」といったものであるが、いくつかのワークショップを体験してみると、ワークショップの性質からコンテンポラリーダンス(以下CD)という身体表現が透けて見え、それが彼を痛く幻滅させているのである。
 指導教員としてはもっとCDの多様性・多層性を強調して、モチベーションを高めてあげなくてはならないだろう。だが、ことダンス関係のワークショップなるものを見る限り、指導教員もまたCDばかりでなく、ダンスはどこへ行くのだろうという漠然とした不安に襲われること、一度や二度ではない。
ワークショップそのものについて考えることの煩雑さは避けたいが、それが「体験的要素」と「教育的配慮」という側面をもっていることだけ挙げておきたい。美術でも古典芸能でも子育てでも料理でも、ワークショップは成立する。時折TVで紹介される政治家たちの「勉強会」のような、それ自身政治的なパフォーマンスとはちがって、参加者一人ひとりが異なった地平で<何か>をつかみとる集まりこそが、ワークショップの本義だろう。
だが、ダンスとなると、そこには身体が介在するから、誰もがもっている身体であっても、その運用法や消去法や編集法に圧倒的な差異が生じるために、「初心者向き」「プロ向き」などと区分せざるをえない。芸術療法のひとつ、ダンス・ムーヴメント・セラピーが、いわゆるCD系のワークショップと決定的に異なるのはこの点なのである。
 冒頭の大学院生にとっては、CDは日常の身体からの逸脱という機能を強くもった身体表現である、という認識がある。そこから察すると、プロのCDのダンサーが参加してしまうワークショップは、その集まり自身が「日常からの解放・逸脱」を目指しているものだとすれば、ダンサーたちは逸脱の逸脱という方程式を経て、もとの身体に戻ってしまうではないか、じゃあもとの身体とは何か、ということになる。
 プロのダンサーたちにしてみれば、そうした渦巻きみたいな方程式に自分の身体を挿入するのが快楽なのかもしれないが、そこにはダンスらしきものがあっても、ダンスに対する思想がないではないか、それが私の大学院生の主張である。
 欧米型のワークショップは、ダンスでも演劇でもそのシステムは大学という制度でのそれに似ている。日本の場合、大学制度がちがうのだから、欧米型のワークショップだけを直輸入しても表面的な成果しか期待できない。繰り返すが、とくにダンスのワークショップの場合は、個々の身体が介在するために、その身体のありように大きな差がある。その差異を標準化すべきか特化すべきか。標準化は学校教育がやることだ。じゃあ特化こそがワークショップの目指すものなのだろうか。CDのダンサーたちはすでに特権的な肉体を所持しているはずなのではないか。
 一概に論じることはできないが、わが国の身体表現系のワークショップには「身体への知覚」というものは鋭敏に準備されていても、「身体という思想」を生きる工夫が弱いのではないか。同じワークショップでも、健康とか福祉とか介護といったテーマで行なわれるものは、そこに知覚と思想とが一致した身体が確実にある。いや、思想もまた身体化されてしまっていると云うべきか。
 人びとの学ぼう、知ろうという意欲を殺ぐ気は断じてない。だが、その意欲にワークショップの主催側がどれほど応えているのか。冒頭の大学院生の不安と不満は、単にCDだけの問題にとどまらず、身体へのまなざし、身体の捉えかた、そうしたものをどうやってワークショップ化できるかにかかっているのである。

P.A.N.通信 Vol.55掲載