■舞台という神秘、あるいは。
上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>
劇場の中では日常は忘れさせてくれると言うが、時折日常で気になっていることが思い出されてしまって舞台上の出来事に集中できなくて困ることもある。それは日常の気がかりがあまりに強く重いためなのか、舞台上の世界があまりに陳腐だったり稚拙だったりで集中できないためなのか、まあ割合はともかく、その両方であるということなのだろう。
宝塚歌劇では珍しく、宙組大劇場公演「ホテル・ステラマリス」は、つぶれかけた名門ホテルの再建策をテーマとした、なかなか現実味の濃い作品だった。作者(宝塚では演出家と呼ぶ)の正塚晴彦は、今の宝塚ではもっともレベルの高い作品を続々と生み出している作家で、以前ショー「デパートメント・ストア」ではつぶれかけて幽霊屋敷と化したデパートを題材に、デパートへの憧れやワクワク感を前面に押し出してデパートの復活をテンポのよいストーリー・ショーに仕立てあげた手腕を思い出すこともできる。
「ホテル・ステラマリス」では、名門貴族の一族が経営する古いタイプのホテルに、買収の話が持ちあがっている。従業員は客の誰某が視察や監査に来た内偵者だとかんぐっている。結局はホテル学を研究している大学教員と名乗っていた和央ようかが再建会社の担当者で、買収後副社長に就任する。
そこから先が、いま18歳人口の急減と新増設大学の増加で構造不況に見舞われている大学関係者(このページの筆者の多くがそうですね)にとっても甚だリアルに切実で頭を抱えたくなるような展開なのだ。顧客のニーズを掘り起こす新企画、節約、仕入れの調整、新しい顧客層の開拓、古い経営者の棚上げ、従業員解雇の噂……、さらに周辺の再開発話から転売の話まで持ちあがり、再建会社幹部の出来レースかとの疑惑まで出てくる始末。後半でワークシェアリングの提案が決め手となって解雇は避けられたということになり従業員が団結とやる気を取り戻すというくだりでも、けっこう真剣に「それで問題が解決するのだろうか」と考え込んでしまった。
劇場という空間にはある種の神秘があって、観る者をどこか異空間に誘うと同時に、現実の空間から遮蔽するバリアのようなものを持っているはずだ。闇をつくり光を当てる照明という装置もそれに深くかかわっているし、何より舞台という(それが一段高くなっていようが、すり鉢型に低くなっていようが)区切られた特異な空間の中であれば何が起きても驚かないという自明な前提によって守られた神秘がある。
舞台の上の世界を観てぼくたちが身につまされる思いになる時、それでもそこには微妙で薄い膜のような隔たりがあって、そのおかげで観劇という行為が成立し、うまくするとカタルシスと呼ばれる現象があらわれることになる。
さて、前回に引き続きまたぼくはここでダンスというものに対して問わざるをえないのだが、ダンスを観るという行為を通じて、ぼくたちは内部に何をどのように成立させているのだろうか。そこで身体がくりひろげる超絶技巧に感嘆したり、自分のダンス創作の参考にしたりというところを超えて、何かきっちりと世界を受け取っているだろうか。
優劣を論じたいのではないが、ダンスの味わい方には、身体の動きそのものを観ることで喜びを得るというもの、ダンサーが表現しようとする世界を共有することで喜びを得るもの、ダンサーの表現方法そのものをメタに味わうもの、など様々な層があるだろう。ダンスを観ることで、前回ここで述べたような を体験することが乏しいのは、この2番目の経験が稀であるからだろう。
ぼくが今もっとも怖れているのは、身体の鍛錬をしたダンサーが少なくなって1番目の動きそのものを味わうことによる喜びも失われ、3番目の方法論の工夫についても単純な思いつきの域さえ出ず、となるとダンスが何の魅力も見どころもないものになってしまうのではないかということだ。P.A.N.通信 Vol.55掲載