■社会って何だ?
高松平蔵<在独ジャーナリスト>
フランス在住のダンスアーティスト、Kさんから突然メールをいただいた。Kさんはあるカンパニーで活躍されているそうだが、そのカンパニーの仕事の一環で小学校などに出向いて作品を子供たちに見せる、といったようなことをされている。これがどうもうまいシステムになっているらしい。Kさんは年に一回程度帰国されるとのことだが、日本でもこういう取り組みができないだろうかという相談だった。
私自身、直接力にはなれないので、しかるべき人を紹介することでしか協力できなかったのだが、興味を引いたのがKさんのメール。日本はアートに関わっている人口はけっこういるが、関わっている人たちが動き回っているだけ。アートが人々にとって身近なものになる日がくるよう、アートに関わる1人としてどうすればいいか考えている、という旨のことが書かれていた。
このメールを読んで思い出したのが父の言葉だった。学生のころ、私は公演の制作などを手伝ったりしていた。実家に帰ったとき父が最近何をしているのかを聞いた。私は公演の話をいろいろした。一通り話をきいた父は「ふーん、互助会みたいなもんか」。それに対して「そんなのでもないよ」と私。だがつぶやくような声だった。
バブルのころ、日本は経済大国だが文化は弱い、ということが盛んにいわれたものだが、実は地方にも芸術家やアートに関心のある人のネットワークはけっこうなものはあった。だが距離をおいて見ると、ネットワークというよりも「業界」というような感じはあった。
日本でここ数年、社会の中で芸術はどうあるべきか、という議論が盛んになっている。そのこと自体、私は歓迎すべきことだと思っているが、「社会」といったとき、どんなイメージを皆で共有できているのか、ということが気になってしかたがない。なぜならドイツに住まいするほど、ドイツで共有されている「社会」のイメージが明確で、それが政治や経済、文化、福祉、教育などあらゆる分野で行われる議論の大前提になっているのを感じるからだ。つまり社会という概念は各アプリケーションを動かすOSみたいなところがある。
「社会」「世間」という言葉で日本の現実を鮮やかに浮かびあがらせたのがドイツ中世史の阿部謹也氏だった。私の理解でいえばある枠の中に個人を合わせるのが世間であり、その原形は血縁や地縁の人間関係でできたムラだ。だから枠からはみ出るようなことをすると「世間をお騒がせした」と謝ることになる。一方、社会とは個人ひとりひとり作りだしていくものだ。ただし人間は一人で生きていけるものではない。他の個人と関係を作らざるを得ない。ドイツではその関係性を連帯という言い方をしていて、教育指導要領などにも連帯を学ぶことを明示している。
日本を省みると、世間と社会が同義で使われることも多いし、「業界」などというのも実に世間的な集団だ。業界用語などというのはその属性をお互い確認しあうためのようなところもある。アートの人材や動きはあるにも関わらず、「文化は弱い」といわれたのは、アートの関係者がまさに「業界」的なことしかできていなかったということではないだろうか。
繰り返すが、芸術が社会の中でどうあるべきかという議論そのものはどんどんやるべきだし、年々増えるNPOはその実践者だ。ただし、今のままでは議論の土台が曖昧だ。NPOにしても結局NPOという名の「業界」になってしまう可能性もある。OSをきちんとつくること、すなわち社会とは何かをまず議論する必要がある。日本の知的営為が試されていると思う。P.A.N.通信 Vol.54掲載