■「見ごたえ」だけではないけれど

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

「見ごたえ」ということを考えると、コンテンポラリー・ダンスは分が悪いように思えてしまう。見終わって「あー、すごいもの見たなー」と内臓にドスンと溜まってしまっているような感覚。たとえば演劇だが燐光群「ときはなたれて」(11月14日・難波・精華小劇場)は、そういう重みが鈍く奥のほうに溜まって、しばらく重さが心や身体から離れないようだった。数人の冤罪による死刑囚が、罪を着せられ、死刑を宣告され、無罪を勝ちとるに至る長いプロセスを語っていくこの劇は、アメリカにおける人種差別、殺されるということに直面すること、他人に罪をなすりつけようとする者の悪意、死刑という制度といった、一つだけでもずっしりと重いテーマを塊のように浴びせ、すさまじい力をもって迫ってきたのだった。
コンテンポラリー・ダンスは、どうしてもコンセプチュアルな部分で勝負する部分が大きく、感動させる、情念を動かす、という働きかけを排除してきたから、そのような重さを観る者の中にドスーンと残すことは少なくなる。たとえば山下残の「せき」(10月30日・アイホール)は、彼のことばと動きを重ね合わせる一連の試みの中では、自由律の俳人として激烈な生涯を送った尾崎放哉とのシンクロという意味で重要な位置を占める作品だろうが、それによって観客は感動しない。実際に感動しないし、山下自身、感動させようとはしていない。それは、山下がダンスなり自分自身の存在なり、放哉なりを神格化したり特権化したりすることなく、理知的な操作によって、いわば中間的なものとして扱ってしまっているからだ。作者やダンサー自身が「これはどの程度のものかわかりませんが」といって提出しているものに、感動しろといっても無理な話だ。
それに対して、モダンダンスといわれるジャンルの作品がしばしば人を感動させるのは(ものすごく乱暴な言い方だが)、身体を神格化することができるからだ。以前ここでふれた渡辺ステージジャズセンターのダンサーたちは、細川ガラシャや松井須磨子を踊ることで自らの身体がガラシャや須磨子になり、それがいとおしく貴いものであることを強く訴えるために、言葉も音楽も照明もすべてを含めた構成がなされていた。
たいていのモダンダンスは、身体の中の何らかの聖性をあからさまな形で観る者の感性や情念に訴えるために存在する(余談だが、だから舞踏もモダンダンスであるように思える)。10月29日に観た片上守の「FLOWERS」にもそれはあてはまるといえるだろう(心斎橋・島之内教会)。片上のダンス遍歴の迂余曲折については、以前「劇の宇宙」掲載のインタビューの際にある程度聞いていたが、この日の作品で、彼は彼のダンスの来し方のすべてを精算したようだった。リズムに合わせて踊り狂っていた若い頃の姿から、自分自身というものを再獲得した末の現在。それはサラ・ブライトマンの「Time to say Good bye」をバックに、人間の身体、存在の栄光を観る者に直接訴えてくるような、強い迫力、見ごたえがあった。
他には、10月31日にkiti(徳庵)で観た吾妻琳、藤原理恵子、Popol-Vuhの3つの作品では、藤原の即興を中心とした振り切り、思い切ったような動きが印象に残った。11月26日には大正のブリコラージュで増田美佳のソロ「白糸の一頁」。詩人で銅版画家の河村悟の作品を展示した空間で行われたデビュー公演。爪先で床をこすっていく感覚と音が、河村の創作過程とシンクロしている面白さ、身体の自在な膨張と収縮、視線の強さが印象的だった。

P.A.N.通信 Vol.54掲載