■踊りまわり(23)−祭りのあと−
小暮宣雄<京都橘女子大学教員>
夏が異常に長く暑かったことと関係するのかしないのか、私の夏もずいぶんと振幅が大きかった。学生達でちんどん太鼓を作ったり、楽隊の練習につきあったり、思い掛けない反響のために、ラジオに出たり嵐山の雑踏に足を入れたりもした。だから、秋の学期が始まるとき、もうゼミはすべてやってしまった気分だなあと学生達と話したものだ。
「祭りのあとの寂しさは・・」と口ずさむまでもなく、鉦や太鼓が鳴り響くところにずっといたからだろう、もう何も浮かれ立たない静かな場所に沈み込みたい今日この頃である(が、きっと、このエッセイが出る頃には、岩屋神社の秋祭りに参加して、アパートを囲んだ音楽と踊りとかに大いに心動かされているに違いなく、いまは単にプチ鬱のひとときにすぎない)。
イベントマネジメントとアーツマネジメントの違いについてはとりあえず整理して区分しているはずなのに、それは机上のことであり、実際に商店街のイベントにアーツを活かしてもらうという地域関連の企画をしていると、イベントの余波がひたすらアーツのアウトリーチ活動をしているはずのこちらの身体と気持ちに伝わり、変なハイテンションだけが残ってしまう。そのハイテンションがからぶった形で置き去りになると、あとはただ熱エントロピーの海のごとく、空虚な残像ばかりがただようはめになる。
そんな気分に不意になったので、最低限のお勤め以外はどこもいかずに家でぼんやりごろごろして、内からエネルギーが充電するのを待つことにした。そんなとき、ついぞ聞かなかった長根あきが奏するムックリのCDをなにげに聞いたりすると、その微音だけれど、絶妙な倍音の美しさ(身体から抜け落ちた生気の所在を示すようだ)にはじめてはっとして、倍音が後頭部に染み入り、沖縄のタマ込めのように無償の慰めになる。また、受け身の身体をダンスの身体にさらして何にも身構えないで公演を観るということに9/30は偶然あいなり、それがダンスをまるごと受容する悦びになることを私の身体に思い出させてもらったのも実に有り難いことだった(吾妻琳/天游館『相性レッスン』Art Theater dB)。
が、思い出せば、9/19.20に行ったお祭り内企画のなかでも、黒子さなえとモトキシノブによるダンスと撮影のライブパフォーマンス「fwa-pwa〜山科三条商店会編」は、今風のイベントとは程遠く(もともとアーツの世界で「event」といわれたものには近似するかも知れないが)、思い掛けない発見が絶えまなく生まれる密やかで楽しいツアーだった。前に五条の画廊でふたりによる写真展示があり、写真投影により撮影当時を思い出す(感謝する)ように踊った黒子さんの踊りを見たことがあった。そのときに感じた優しさやくつろぎの気持ちとも共通しながら、この場が黒子さんやモトキさんに馴染みがないところであることも影響して、ときに緊張感とか警戒心とかまで身体に出る瞬間があり、それがこのまちの現実に忠実に迫るものになっていたように思えて、こういう「まちの活写=ドキュメント」をダンスと撮影がともにすることの実験性を嬉しく思ったし、そういうことが出来る企画でなんともよかったと感じた。
黒子さなえとモトキシノブによる
ダンスと撮影パフォーマンスP.A.N.通信 Vol.53掲載