■目に見えているものから溢れ出てくるもの

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 j.a.m.Dance Theatreの「m/m」(8月20日、アイホール。振付・演出=相原マユコ)は、これが第一回公演だったというが、印象的なプロットが連続して深い情感を生み、小さいが熱いドラマの昂まりが観る者を襲う、レベルの高い作品だった。「走る」ということのもつ様々なシチュエーションを想像させるような、表情豊かにダンサーが走る姿が多々現われたのが印象に残る。特に森井淳の野生的な走りには、追うとか逃げるとか、切羽詰まった厳しい状態に窮した身体が最後に見せる美しい跳躍といった気味があって、ひじょうに魅力的。久万田はるみら他のダンサーもそれに続き、これによって舞台の温度が急激に上がったような気がした。
 中盤の赤い物干しロープに赤い衣類を吊るす場面の意味がよくわからなかったり、女性ダンサーも偶数であるほうがいいのではないかと思えたり(メンバーは女3、男2)というようなことはあったが、全体には1時間を超える大きな作品を、よくここまでまとめたなと感嘆した。ただ、ラストに向けて全員が同じ方向を向いて静止するシーンから、森井が一人大きく動くところで、その静から動への瞬間に、もっとタメきったような大きさ、宇宙が始まる時にあったかどうかといわれる特異点のような瞬間があってほしかった。そう思って振り返ると、動くことと動かないことの間に横たわる(のではないかと思われる)決定的な深淵をもっと見たかった。つまり、彼女たちであれば、そのようなものを見せてくれるのではないかという!
期待を抱かせ、膨らませてしまう、そういう時間が繰り広げられたということだったのだ。そして最後、映像で雪のようなものが激しく舞う中で、さていったいこの先には希望、あるいは光明というものがあるのだろうかどうなのだろうかと、これもただの凡庸な身体表現である限りでは決して問う気にならないような問いが、ぼくの頭満杯に膨らんだ。
 この公演の案内状に相原は「時として入れ物だけになってしまう身体のどこに心を溢れさせる事ができるだろうか?」という問いを書きつけ、チラシには「あなた」が「いってしまった」ことが書かれている。「m」はmourning(悲しみ、追悼)の「m」でもあるという。そのような溢れを追いながら、表現としては過剰にならなかった簡潔さもまたこの作品の魅力であった。
 Lo-lo Lo-loは二回目の公演「Reversible」(8月29日、ロクソドンタ ブラック。構成・振付=田岡和己)。よかったのは耽美的で異界を思わせるような美術、子どもの遊びをモチーフにしていながら年齢不詳な不気味さ、予測不能で間の取り方の正確な動き、暴力じみた動きではあっても悪意によるものではなくイノセントであること、瞬間的な物語の集積が強い抒情となって押し寄せてくること。タバコというモチーフが子ども→大人というプロセスを表わすのには陳腐ではないかと思われたこと、やや全体に同じトーンが続いたことが気になった。
 野田まどか「涙ふく木綿のハンカチーフください」は、9月2日のDance Circus(Art Theater dB)の中で、垣尾まさる(呆然リセット)と並んで出色だった。顔の表情の強さがまず印象的で、続いて豊かな動きの語彙とそれに伴う身体の表情が次々に披露される。それらが動きの領域にとどまらず、一個のダンサーがこの空気の中に存在しえていることの厳しさや不思議、彼女が何ものかに触れえていることの貴さを感じさせてくれた。垣尾の「こんなてんきに どうやってとぶ」は、 この世界での生きにくさを的確に表現した上で、それでも最後には「とぶ」=壁を走ることで一発逆転、めちゃくちゃ気持ちよかった。身体の正面性ということについても示唆深い。

P.A.N.通信 Vol.53掲載