■ダンスの「間」、 批評の「間」
小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>
この2ヵ月、じつに<ダンスな日々>を送っていた。
5日間にわたって京都府民ホール・アルティで「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」が行なわれた。そのすべての行程をクリアしたわけではないが、前半の3日間のプログラム(17作品)を観ることができた。例年のごとく、何人かのゲストと制作スタッフ(舞台芸術課長)の船阪義一氏、さらに舞台を終えた出演者たちがロビーに集まってアフタートークを行なう。当事者以外の観客がなかなか残りづらい雰囲気と時間帯であることは否めないが、会を進めていくことで次第に居残る観客もふえてくることだろう。それよりも、出演者を前にして何か批評じみた言説を述べる、というのは大変にむずかしく、かつスリルにみちた行為なので、何回となく参加させてもらっている。
云うまでもないことだが、批評には印象批評と技術批評の二つがある。前者はある程度のハッタリと熟達したレトリックが必要である。後者は鑑賞経験と鑑賞眼とがモノを云う。もちろん、現実の批評はそれらが混合された状態になっている。しかも、情宣としての機能を付与させる必要もある。だが、それは批評を「書く/読む」場合の状況である。出演者に向かって批評らしきことを云う、というのは、それ自身「本来の批評である」という見解と「批評から遠ざかっている」という意見の双方の矢面に立たされることになるだろう。だが同時に、批評がリアルタイムで確実に当事者に届くという大きな特典がある。
ダンスの言語化、という問題は、研究と批評(これは歌舞伎学会の学会誌の副題でもある)をしている人間にとってつねについて回る難題であり宿痾でもある。そしてその言語には話しコトバと書きコトバの二通りが存在する。前者は軽快であり直截だがその場限りというイメージが強い。しかし、確実に届くという機能はやはり重要だ。ダンスの言語化においては、おそらくこうしたアフタートークのような場で発生する言語の共有や応報や混戦を考慮に入れることは少ないのではないか。そこもまた充分にダンス的な場なのである。
一つひとつの作品について触れる余裕はないが、次のような風景が出現する。ゲストスピーカーがそれぞれ意見を述べる、それに対して出演者がコメントをする、さらには制作サイドから船阪氏が発言をする。ダンスを作り上げるときに大変なエネルギーを要しているはずなのに、普通はこうした形で作品を締めくくることはないだろう。〈作品〉という概念をもっとも広く捉えた場合には、このような事後のやりとりまで含めることもできる。
口幅ったい云い方になるが、ここでは批評家側は、個人的な見解を述べると同時に、どこかで観客の代表であるという意識をもたなければならないと思う。無論、すべての観客の意見を集約できるわけではないが、客席の反応や公演後の雰囲気などをもっとも身近に知ることができるのは、批評をしている人間だからだ。
翻って、批評家の仕事はむずかしいと云わざるを得ない。トヨタ・コレオグラフィー・アワードの選考委員を務めたときもそれは強く感じた。200近い作品から審査対象となる8作品を選考するのだが、自分なりに選考基準なるものを設定していても、次から次へと登場する作品たちと、選考委員たちのそれぞれの意見とによって、その基準は容易に揺らぐ。揺らぎながらも、揺るぎのないダンスを見つけなければならない。ダンスを観ている客はやはりダンスをしている、というのが持論なのだが、批評家や選考委員もまた省みられることのないダンスをくりひろげているのである。ダンス(日本舞踊も含む)において重要な「間」というものが、アフタートークや選考においても必要だ。コトバを見つけるための「間」ではない。ダンスへと吸引され、ダンス的な快楽のなかへと身を委ねてしまいそうになるその直前に踏みとどまること。それこそが批評家にとっての「間」なのである。P.A.N.通信 Vol.50掲載