■ダンスと表現・言葉と動き
上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>
ダンスと言葉の関係については、この場所でも山下残にかこつけて考えたことがあるが、山下のように屈折しているのではなく、基本的には両者が寄り添いながら展開しながら非常にスリリングな作品を、続けて観ることができたのは、幸せで刺激的なことであった。
一つは、深海愛(ダンスカンパニー・ディニオス)による「松井須磨子の愛と死」(渡辺タカシ作・振付。11月23日、「ダンスの時間6」ロクソドンタ・ブラック)。五十田淳の朗読(当日はテープ)が松井須磨子の後半生を、女優としての履歴、また島村抱月との恋と演劇に燃焼した日々を情熱的に語るのに合わせ、深海が30分の間、ほぼ間断なく踊り続ける激しい作品である。語られる言葉によって深海の動きに明確な意味や感情が加えられ、動きに広がりとふくらみが出てくるのを、非常に興味深く思い、感動した。ぼくがほとんど意外なほどに思ったのは、言葉によって、動きの表わすものが限定されるのではなく、むしろ広がっていくことだった。直線的に女優の伝記を語っていく五十田の言葉は、深海の動きに速度と鋭い角度を与え、物語としての熱く圧倒的な迫力で客席を魅了した。
もう一つは、同じ「ダンスの時間6」で観たサイトウマコト、生田朗子(リリパットアーミー)、佐藤玲緒奈(ソウダバレエスクール)による「Resonate」(サイトウ作・振付)。ブルトンのシュルレアリスム小説『ナジャ』からピックアップしたテキストを女優の生田が様々な声とトーンで語り、サイトウと佐藤、特に佐藤が豊かな表現力と正確なテクニックを存分に発揮して踊る。ここで『ナジャ』から抽出されているテキストは、独白調であったり論理的であったり、様々な色調を持っている。そして生田も含めたダンサーの動きも、多様な階調をもっていた。ナジャという一人の女の多重的な境界性のためには、佐藤が壊れた傀儡のように、あるいは存在の遠心力を自在にコントロールして動くのがふさわしかったし、ブルトンとナジャの曲折のある男女関係にはサイトウと佐藤の鋭く時空に切り込むようなデュエットが、まことにふさわしかったといえよう。
ROSASのアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのソロによる「ONCE」(10月4日、彩の国さいたま芸術劇場)も、ジョーン・バエズのライブを流すことで、その歌詞の強いメッセージを送りつつ、ほとんど動き続ける運動量の大きな作品だった。そしてラストで繰り返し確認するように提示されるメッセージも含め、戦争というものに反対するメッセージを強く直接的に送る作品だった。こういう作品を観終わると、彼女の運動量に拍手しているのか、送られたメッセージに拍手しているのか、その両者なのか片方なのか、と自問させられるような気になる。
言語の問題とは離れて、藤田佳代舞踊研究所の第8回藤田佳代作品展(11月29日、神戸文化ホール)では、身体が空間を明確に意識していることが看て取れたことが面白かった。身体がたおやかに揺らぐのが、実は空気の粒子や重量と懸命にあらがっている現われのように見え、このダンサーたちは身体を動かすということについて、独自で強固な意識を持っているのだなと思った。
他にもBABY-Q、尹明希などの刺激的な公演を観れた、素晴らしい2ヶ月だったが、仕事や体調の関係で観に行けなかった公演も多い。この場を借りておわびすると共に、残念でならない。P.A.N.通信 Vol.48掲載