■絶対の身体・絶対の青空

 小林昌廣 <京都造形芸術大学教員>

 ダンスとは無縁の、だが身体論の中心となるべき卑近な出来事をまず挙げてみよう。阪急電車に乗ったときだ。先頭と末尾の車両は「携帯電話の電源オフ」車両であるため、いつも好んで乗車している。その車両に梅田から舞妓さんたち数人が乗りこんだ。美しく、柔らかな空間に変わった。大阪から京都観光に向かおうとした人たちにとっては、なんだか得をした風景だろう。
 だが、それはほんの一瞬の幻にしかすぎなかった。
 座席に着くなり舞妓の一人が携帯電話を使い始めたのだ。大きな声だから内容もよく聞こえてしまう。歌舞伎だが舞踊だかの公演のチケットを桟敷と一番前の6人分が余ってしまったので…(あとは無理やり聞かないように努力してしまったのでわからない)といった内容だった。携帯の使用は一度ではない。しかも舞妓に付き添い(?)の年配の女性たちも盛んに携帯を使っている。
 阪急電車の先頭車両では携帯電話の電源を切りましょう、ともっともらしいことを述べているのではない。彼女たちの「性根」についてあきれているのだ。美しく着飾った舞妓が電車のなかで大声で携帯を使っている光景を、「時代も変わった」などと太平楽な言説を吐くほどボケてはいない。それは、70年代のハリウッド映画に登場する日本人のように、ぎこちなく、醜悪で、見るに耐えない愚劣な場面であった。
 「躾」というコトバがある。「しつけ」と読む。このコトバの用法や起源については割愛するが、文字だけを見てほしい。「身」と「美」とで構成されている。本来は「身体や身のまわりを美しくする技法」といった意味合いなのだろうが、ずばり「身体という美」と読みかえたい。身体が、その立ち振舞いが、自ずから美的な空間を発生させるような現象、あるいはそのための技法。それをこそ「躾」と呼びたいのである。
 ありきたりの表現かもしれぬが、コンテンポラリーダンスで云えば、存在感というものに近い。そこにいるだけで世界の起源も構成も変更させてしまうような圧倒的な身体のことだ。
 古典舞踊の世界であれば、最初の立ち居でほとんど決まってしまうような身体である。煌びやかな衣裳や付け焼刃の色気ではどうにもならない、ほとんど、「絶対の身体」である。
 阪急電車で携帯電話を平気で使っている舞妓は、仕事中ではないのだから、そんな「絶対の身体」が要求されているわけではない。どのみち彼女らはそのような身体とは永遠に無縁ではあろうが、舞妓の身体が自ら発生させる美、というものがあってしかるべきではないのだろうか。最近は古典芸能関係の仕事が多いので、多くの舞踊家や能楽師とお会いする機会があるが、その方々の誰もが正しい立ち居と上品さで接してくださっている。舞台の上だけのことではない。「絶対の身体」という強烈なエネルギーは、その残像を日常生活を送る身体にも濃厚に纏わせるのである。
 「躾」についての議論の系譜は、古くは武智鉄二、郡司正勝に始まり、市川浩、中村雄二郎を経て、現在の三浦雅士、斎藤孝まで連綿と続いている。否、そうした系譜を律儀に追わなくても、わが国は幸田文という「躾」文学の隠れることなき存在がいるので、彼女の文章(全集もあるが、文庫も多く刊行されている)にほんの少し触れるだけで、文字通り居住まいを正さなくてはならない心地にさせてくれるだろう。幸田文は、携帯電話はもちろん、洋装とも無縁の日本人だった。
 身体とは何か、日常生活の身体とは何か。そうした根源的な問題について考えざるを得ない阪急電車ではあった。舞妓たちは終点の河原町まで黙ることなくおしゃべりを続けていた。大声で喋り、大口で笑っていた。改札を抜け、地上に出たときに見上げた空はどこまでも青かった。

P.A.N.通信 Vol.47掲載