■<私>の未来・予想・図

 上念省三<関西国際大学コミュニケーション研究所>

 1月半ばまで兵庫県立美術館で開かれた「未来予想図〜私の人生☆劇場」を観終わって、現代美術とはいえ美術作品の展覧会というよりも、一つの大きく多様なパフォーマンスを観たような心地よい疲労を感じた。一つのフレームの中に収まることなく、ある時は激しく、ある時は柔らかに空間に滲出し、<私>と共に空間が覆い尽くされてしまうような感覚。
 この美術館の空間の大きさに対して、内藤絹子「言葉のDNA(遺伝子)」の言葉の奔出、しばたゆり「My object; I and object」の写真に包含される思いと付随する言葉の膨大さ、森村泰昌「劇場としての「私」」の過剰さが醸し出す奇妙な静謐、堀尾貞治「あたりまえのこと(位置をかえれば)」の激しい速度感などなど、パフォーマンスに通じる要素によって強い作品空間が構成されていた。
 この「未来予想図」という、ベタにポップなタイトルに最も直結していたのは、やなぎみわの「Granddaughters」だっただろう。ヴィデオによって大写しにされた老婆たちが少女時代の思い出を語り、その言葉をスタジオのようなブースで同時通訳している少女たち。長い歳月を顔にくっきりと刻み込んだGrandmotherたちと、ブースの中でふざけたり笑ったりしている、ツルツルした肌をもつGranddaughterたち。それを観ている<私>たち。
 これら美術館で開かれている数多くのシーンから、ぼくはよくパフォーマンスの現場を実感する。それはただ単に何かがパフォームされたことの痕跡にとどまらず、今そこで湧き出ていることを感じるのだ。
 この約3ヶ月でもちろん多くのダンスを観たが、ローザスの「ファーズ」を観ることができたのは幸運だった(12月13日、彩の国さいたま芸術劇場)。ミニマルが豊かさに転じる一点をじかに見ることができた。また、京都クリエイターズ・ミーティング2で、多くのダンサーにインタビューができたことも、楽しい経験だった。この成果はNHKのホームページのdigというコーナーで見ていただけることと思う。
 「ダンスの時間」(11月23・24日、あべのロクソドンタ)では、ヤザキタケシの<名作>「スペース4.5」を別バージョンで本人と松本芽紅見が競演。自己への関わり方と投げ出し方がきっちりと対比的に見られ、ひじょうに面白かった。サイトウマコトの二つの作品を高橋愛美、佐藤玲緒奈と二人のバレエダンサーが踊ったのも、それぞれの身体の特質や美点をきっちりと見せ、密度の高いスリリングなものとなった。浜口慶子が一つ一つの動きを丁寧に見せるという基本的なコンセプトから、一つの作品を美しい流れとして組み立てていたのが、新鮮だった。
 GOZAZOOのダンス・パフォーマンスがよかった(12月23日、應典院)。中山陽子の「私はどこに…」が、全体のトーンがしっかりとしていて、確乎とした世界を創り出せていたし、中山自身の特にラストの去り方など堂々としてよかった。兵頭ますみの特に「Hands Clean」はひじょうに爽快で、ダンスの喜びが伝わってきた。観客がにこにこしながら観ていたのが見えた。ダンスは基本的には一人称の表現であるが、展覧会のタイトルをもじって「私の未来予想図」とでも呼ぶべきような世界が、きっちりと提示されていることに、好感を持つことができた。

P.A.N.通信 Vol.43掲載