■テクノとマッチョ17  〜崩しについて

 田村武<京都造形芸術大学芸術編集センター研究員>

 ことばは、同じ発音でもイントネーションによって意味が変わる。箸と橋、蜘蛛と雲、柿と牡蠣などがそう。また、発話された文章を何処で区切るかによっても意味が変わる。「きょうはいしゃにく」が「今日は医者にいく」と「今日、歯医者に行く」分けられることなど。日常の発話の中では、それらを意識せずに、大抵の場合使い分けられている。逆に意識化しコントロールすると、様々な意味を含んだ発話が可能になる。意味を聞いている者にゆだねることもできるし、二重の意味を含めることもできる。三浦基が演出した舞台はこうした発話の「崩し」に溢れている。アトリエ劇研でみた青年団リンク・地点「三人姉妹」は、もちろんチェーホフの名作が原作である。
 この舞台、耳からの情報を文字に変換し意味をとることが難しい。入力とそれに対する理解のバラエティーが観客にゆだねられていて、それぞれが「三人姉妹」を見ている。しかも、普通に話す者や、オペラのように歌う者もいて、バラエティー豊かな発話がある。
 三浦の方法は、コンピューター・ミュージックに似ているように思う。ただ彼が実際に使っているかどうかは知らない。近年、ソフトの発達によって、音楽のカット・アンド・ペーストやエクスパンドが容易になった。三浦の方法は、コンピューターを使って発話のバリエーションをシュミレートしている作業を身体に置き換えているようにみえる。それはコンピューターによって発達し、人が再現するのは無理かもしれないといわれたドラムパターンを人が再現し、新たな展開を見せている状況ともリンクする。三浦の試みも発話と舞台芸術の新たな可能性の一つのイシを示している。

P.A.N.通信 Vol.51 掲載