■「団塊ジュニア時代到来?!」
加藤多緒
先日、OMSに『猫ニャー』を観に行った。誰から勧められるでもなく、
その劇団名を語るセンスから、おそらく面白いであろうと推測して、
ふらりと赴いたわけである。
その恐ろしくナンセンスに、強引なほどマイペースに
進められていくステージは、期待を裏切らないなかなかの代物であった。
京都の劇団で例えていうと、舞台の展開していくスピードは『衛星』なみ。
ストーリーのナンセンス度は『ベトナムからの笑い声』的。というのが、
ざっとした私の印象である。
今回は、このごろ高い頻度で接する機会のある、
こういった“ナンセンス・コメディ”(勝手に命名しているが)
について、この場を借りて私の独断と偏見でお話ししようと思う。90年代に入って、いわゆる“静かな演劇”というものが登場し、
そのムーブメントは2000年を迎えるにあたり、
演劇界の中で一つのジャンルを形成するに至ったように思われる。
一観客という立場にある私の視点で物申すと、
実際“静かな演劇”に初めて出会った時の感動はかなり衝撃的で、
演劇に対する期待感を膨れ上がらせるきっかけとなった。
何とセンスのある(=センサブル)表現があるのだろう、
と感じたからである。“静かな演劇”の何が新しかったか。
それは、「普通に世の中に存在すること」をドラマとして描いたことにある。
取り上げられる世界は、概ねごく日常の一場面。
現代社会に傷ついた人間が登場し、お互いの傷を舐めあうような
セリフが語られ、だからどうなるというでもなく、
ただ続いていく日常が語られる。
現代社会の生活者である自分の、等身大の姿を映し出している
ともいえなくないこれらの芝居には、誰もが抱える悩みが存在し、
それを理解するのに、時代性や国民性に左右されるような
特別な価値観は何も必要ない。
それゆえ受け入れやすく、共感することができた。
ところが、類似品が世に多く溢れ出すと、何を観ても同じように見え始めた。
次第に飽きてきた自分に気付いたころ、“ナンセンス・コメディ”に出会う。
“ナンセンス・コメディ”の特徴は、現実に起こりかねないような事件を、
非現実的な表現を用いて起こしてしまうという、
コミック的要素が強い舞台作りと、例えば、人間がおそらく
ある程度共通してもっている価値をひっくり返すような価値観を提示し、
それらをあたかも価値のあるようなものに見せかけ、
結果としてすべての出来事を笑いに昇華してしてしまうというような
やり方で見せる、価値観の再構築である。
その再構築の方法はそれぞれ劇団によって違うが、
不条理な結末を迎えながら、観劇後不思議にすっきりとした気持ちに
なってしまうのは、そこに不可思議な感動やメルヘンの存在を
垣間みることができるからだ。“ナンセンス・コメディ”は“静かな演劇”とは見かけは
全く違う様に見えるが、前世代的演劇に対する批評性が存在することでは、
共通しているといえる。
確かに、この二つのタイプの芝居は、一線を隔す表現方法である。
日常をストレートに表現していく“静かな演劇”に対し、
“ナンセンス・コメディ”は、日常的な場面を取り上げたとしても、
素直な表現方法を用いない。
登場人物は、基本的に前向きな人間が多く、傷つきやすい繊細な
人間はあまり出てこない。特殊技能があったり、超人的だったり、
ちょっとした荒事のノリだ。ひねくれているとでも言おうか。
そしてその方法は、決してセンスがいいとはいえない。
はっきり言って、センスに欠けている(=ナンセンス)と言うべきだろう。
しかしながら、それは、痛烈な批評性を明快に打ち出すことに成功している。
そしてこの部分に関しては、“静かな演劇”よりもむしろ、
“ナンセンス・コメディ”の方に優位性を感じる。
またこの点を考えると、今後の潮流に影響をもたらす新しい表現と
考えても差し支えないと私は思う。最後に。『猫ニャー』の代表である作・演出を担当するブルースカイは、
公演案内によると反町隆史と同じ歳だそうである。
ということは、『衛星』の代表・蓮行と同じ歳でもある。
これからの新しい時流を作るのは団塊ジュニアということか?!
20世紀を送り出す今年、彼らの動きに注目していきたい。(了)P.A.N.通信 Vol.27 掲載