
ゲスト: キタムラ アラタ (演出家)
聞き手: 小原 啓渡
キタムラ アラタ プロフィール
NPO法人シアターアンネフォール主宰、演出家。
1971年生まれ。明治大学劇団螺船主宰演出家、劇団俳優座研究生、イェール大学ドラマスクール期間学生を経て現在に至る。
2000年度、文化庁在外芸術家派遣員。プラハ国民劇場にて2年間勤務の後、2002年11月に帰国。
2001年、国際演出家研究会(モスクワ)で最優秀演出家賞受賞。現在は、「性や文化」についてのコメンテーターとしてTVやイヴェントで活躍中。
「創造とは何か」をテーマに、毎回様々なジャンルで活躍されているアーティストの方々にお話を伺っています。今回は、NPO法人シアターアンネフォール代表理事、演出家で国際演出家(モスクワ)最優秀新人賞を受賞したキタムラアラタさんにお話を伺いました。
小原
単刀直入にお伺いします。キタムラさんにとって創造とは何でしょうか?北村
「創造する」という事と、「創造」そのものは違うと思うんです。私がやっている
事は、「創造する」という事になると思います。基本的に考えたものの結果を「創造」したものとして発表するという事は、私はしていないんですね。せいぜい、モノが「創造」されるためのきっかけを作る作業をしているにすぎない。
演劇と言うものは、私の確信では「過程性の芸術」で、物事が創られていく過程をどういう風に見せていくかというアートだと思っています。何もない空間に、ある人たちがそこに存在していて、何かを作り始める。そこで何が生まれるか分からない状況がどんどん広がっていって、色々な道を通ってそこから何かが発生する。
ですから私のアートにおいては、発表という考え方はなく、パフォーマーやアーティスト…そして観客が何かに向っていくのをかたちにする事が大切なんです。あえて何かを創作しなければならないのだとすれば、それを行うための装置を作るという事。何かに向うという行為を舞台の上で行うために俳優はどういう「からだ」を用意しなければならないのかという事を稽古の現場で構築していく事。美術や音楽は、それを邪魔したり、促したりしながら俳優が舞台の上でその地点に向えるように導いていく事が大切です。小原
つまりインプロ的要素は絶対必要だという事ですか?北村
必要ですね。舞台の上で用意されたプランがでなくなっていく瞬間はとても大切です。 インプロヴィゼーションには、二つのアプローチがあると思うのですが、一つはコラージュというやり方。つまり、自分が持っているボキャブラリーをその場その場にあわせて、空間に投げかけていくと言うやり方。もう一つは…これが私がやっているやり方なのですが…強力なプランやアイディアをベースにおいてそれが変化したり消えたりする瞬間を逃さずに楽しむというやり方です。私は、この方法にとても興味を持っています。小原
設定、装置造り、場所造り、空間造りがあって、よりインプロが展開できる様な指示を出していくという事でしょうか?それは、脚本に関しても同じですか?北村
そうですね。基本的には俳優が舞台の現場で何ができるのかという様な可能性や方向性というのを稽古の場で考えていくのが、私の稽古の方法だと思っていますね。小原
つまり、一般的に言う「稽古」という言葉のとらえ方がキタムラさんは違うんでしょうね。一般的な稽古は練習ではないという事?北村
「リハーサル」ではなく、日本語で言う「稽古」という言葉が文学史上初めて使われたのは、北畠親房の『神皇正統記(しんのうしょうとうき)』だったと思います。「邪なるものは久しからずして滅び正にかえるは古今の理なり。古きをかえりみる(稽みる)を稽古と言う」というものですよね。つまり、稽みる事によって理を見つけ出す…という意味なんです。
その語源に即して、身体に記録もしくは記憶されたものを稽みて、そこからどれだけの可能性が見出せるか試みていく時間を私は稽古と呼んでいます。小原
難しいと思いますが、あえて創造とは何かを一言で表現するなら?北村
あえて言うなら、私たちの「共有できる時間」が進むための地点や装置を設定するという事。そして、そこにプロダクティブな状況が生まれるように何らかの仕掛け
をする事ですね。まぁ、準備するだけでもいいし、祈るだけでもいいかも(笑)
ところで、話は変わりますけど、「不可触の森」って想像出来ますか? 。小原
人間が入り込めない…?北村
ポーランドとベラルーシ(どうやら私はこの国の民族の血を引いているようなんですが…)の国境地域にビャウォヴィエジャという森があります。国の政策で全く人間が手を触れないよう勤めている所なんですが…その森に行くと人間社会とまったく類似した混沌、共生、競争という状態が木々や動物たちの間で繰り広げられているのを見る事が出来ます。
木々が生存競争をしていて、勝ち抜いたものだけが大木になれる(他は若木のまま命を耐えます)。そして勝利者の大木は威厳を保つかのようにそこに聳え立っていて、弱い植物や小動物たちがそれに頼って集まってくる。しかしその大木もやがては死ぬんですね。すると、若い木々や動物たちによって粉々にされ、倒され、土の中に張った根が引きずり出される。その根は大空を仰ぐかのように何本もの手足で舞踏し、かつての栄光を後に語り継いでいこうとしている。そしてその死んだ大木の周りから水が沸きまた新しい生命が生まれるわけです。生存競争のための闘争とその敗北による死が常にそこにはあるわけです。
こういった、混沌とした地獄のような風景を作り上げている悪意っていったん何なのだろうって、私は考えているんです。私たち人間もこういう悪意の中に生きているわけですよね。芸術家の仕事というものは、自分たちを取り巻いている…もしくは中にある悪意の正体を探し求める事にあるような気がしています。
悪意の泉を捜し求める旅というもの…そんな感じですね。小原
なかなか哲学的ですね。本日はどうもありがとう御座いました。P.A.N.通信 Vol.47 掲載